mou塾通信

夏終わり、これから秋に向けて号

moujuku

◆ここ数か月の「MOU塾」につきましては・・・
妻のブログで日常のMOU塾の様子はお分かりのことと思います。
だから私は、具体的な学習状況と今後の取り組みなどについてお話ししたいと思います。
長い方はおわかりだと思いますが、私どもの塾は中学~高校の6年間のスパンで子供たちの成長を考えながら指導しています。
中学・高校の(一年ごとの)縦割りの集団生活は、時に限定的で閉鎖的な感覚をもたらすものだと思っています。特に最近は過剰な人権保護により、個人個人がいらぬガードに覆われ、昔のような学年を超えた交流が減少している。
地域のコミュニティーも崩れ、「さわらぬ神にたたりなし」の付き合いが当たり前になりつつある。この30年足らずの間に、ここまで、個人主義が増長したのは何故なのか考えずにはおれません。
学習塾も、個人を対象に教える所が多くなりました。
それは、子供が「個別がいい」というから。・・・なのだそうです。
子供の目線のみを見て(親が)判断している結果、そうなっているようです。
でも、考えてみますと、子供はやがて必ず「社会」という大きな集団の中に吸収されその中で何らかの役割を持ち生きていかなければならない。ならば、早いうちから年代を超えた集団の中でもまれたほうがいい、私はそう思っています。
現在、社会の中に溶け込めなく離脱し、基本的生活の基盤を親に帰属して(今風に言えパラサイト・シングル状態で)生活している30代以上の未婚者は300万人以上いるといわれています。先日NHKでそんな特集番組を放映していて身につまされる思いで見ました。
「まさか、こんなことになろうとは・・・」と70歳を超えた親が途方に暮れている。その原因もおぼつかないままに、「先のことは何もわからない」と嘆く姿。その隣で、母親が作ってくれた焼きそばをむしゃむしゃと頬張る37歳の娘。
私は、長く「個人」を教えることもしてきましたが、やはり、どうしても個人対象では教えること自体に限界があると感じていました。
集団の中に、自分を対象化して見られる力。その力がなければ、大人になってから自分のアイデンテティの確かさと、社会との間にギャップが生まれて来る。一旦生まれたその「不安定な疑惑」は、消えることなく心の底に蓄積し、精神を蝕んでいくだろうと思っています。
もっと多くの人間としっかり交わり互いに擦りあって磨かれなければいけないと、マンツーマンで教えながら感じていました。
個人指導は、どうしても閉鎖的な「個」を作り上げてしまいがちだと思い、塾を開くことを決めた次第なのです。

何を申し上げたいのかといいますと、MOU塾は、塾生が互いに触れ合いながら磨きあえる集団でありたいと思っているということです。
中学1年生から高校3年生まで、同じ部屋で同じ時を共有し、互いの存在をしっかり意識して「切磋琢磨」してほしいと思っているのです。
よって、塾に来ている子供たちは、各自、互いの情報スペックを共有しながら関わりを持ち交流することになります。
今年で6年目の塾ですが、一番長い子供で6年間勉強しています。後輩たちは、そういう長いキャリアを持つ先輩たちと交わりながら、いい所をどんどん吸収し、模倣し、自分の学習力を付けて行ってもらいたいと切に望んでいます。
先輩たちには、後輩たちを何かにつけて見ているように言っています。同胞として、後輩たちを面倒見てほしいからです。
また、後輩たちは、遠慮せずに先輩たちに質問して、様々な問題の解決の糸口を見つけてほしいと願っています。
また、保護者の方々にも、この塾の考えをご理解いただき、ご賛同いただければと思っています。 

◆新年度になりまして、早半年が経とうとしています。
中学1年の4人のメンバーもそろそろ中学生活に慣れてきた頃かと思います。
「・・・かと思います」と客観的な書き方をしましたのは、一般的にはそうだと思うからです。

ちょっと、世間話をさせていただきます。
今どきの、(具体的にいつからとは言えないのですが)最近の子供たちは、むかしの子供たちと違って、考え方や個性に、かなり個人的な差が出てきたように感じています。
昔の子供たちは、だいたい「こんな感じ」と十把一絡げにまとめ上げることができた。
ところが、最近の子供たちは、考え方や性格もそれぞれまちまちで、共通項でくくれるようなものが少なくなってきているような気がするのです。
「この子供たちは、○○だ」と一般化してまとめられない。
「道徳」を教えることは骨のいることだと思います。
いい意味では個性的、反対の意味では無秩序的になってきているとも言えるでしょう。誰彼が、と個人的に特定して言っているのではありませんし、誰のせいでもない、そういう時代なのだと思っています。
極端なデジタル化が、人間の理解の能力を超えた速さで進む中、アナログの活字を離れ、映像主体の直接的感覚に浸っている子供たち。彼らの感性や特徴は、実は目に見えないだけで異常なスピードで変化しているのだろうと想像します。
その変化についていくのさえ一杯一杯の50歳を既に過ぎた私が、一種の危機感を覚えるは、単なる老化だけのせいではないと思うのです。
インターネットの拡大による革命は、今まさにこの時代が過渡期。
我々は、日々その渦の勢いに翻弄されている。
幸いまだ日本はその渦に大きく巻き込まれてはいないものの(悲劇的な現状にはなっていないという点)でですが、これからいつ何が起こるともわからない。
資本主義経済の限界をみるような「格差構造」はあまりにも複雑に入り組みすぎて差し替えようがないからです。今後いつ日本でも「リーマンショック」のような事態が起こってもおかしくない。
そして「グローバリズム」の勢いよる強引な「英語学習」の強化。まるで日本人が「英語人」になることを推奨しているような風潮。
本来、言語は母国の文化・風習・伝統などを鑑み継承していくことを基盤にして考えられるべきもの。それが、「グローバリゼーション」という不可避のスローガンを盲目的に信奉し、無意識に「英語」を崇めている現状がある。
「英語話せるとすごいよね。」「あの人すごい発音うまいんだよ。」
そんな他愛もないことに、感動するような日常性。
反対に考えてみてください。
(海外から日本にやってきた)外国人がどんなにうまい日本語を話したとしても、我々日本人はその人を同じ日本人と認めるでしょうか。例えば、(その外国人が)「武士道」に共感し、「書道」を嗜み、「侘び」「寂び」の世界に没頭しているとして、(その外国の方が)それらのことについて、我々にその神髄を教えてくれたとしても、心のどこかで「?」を打つのではないでしょうか。やはり、その国に生まれた人間だけしか持ちえないDNAがあると思うからです。
だから、私は逆に、我々がいくら英語をうまくなっても、限界があると言いたいのです。単なる「ツール」として見るべきで、それ以上のものではない、と思うからです。
そこまで考えなくても・・・という人たちは多くいるでしょう。でも、確実に日本の文化が、(現在の私たちの生活から離脱し始め、)絶滅しかかっているのは事実。
私が生まれた昭和39年当時と比べて、日本の総人口はほぼ変わりがないのに、米の消費量は約半分になっている。世界でも有数の恵まれた水資源を持つ日本だからこそいいお米が取れるのに。今お米は、日本では「斜陽食」になっている。
弱肉強食の世の中、逃れられない「自然淘汰」の掟で『日本文化』は無くなっていくものだとしたらそれでもいい。それでもいいが、その最後を見届けることはしなければならないと思うのです。
話はだいぶ逸れました。

現在のMOU塾生の近況をお伝えします。

以下省略・・・

2015年9月

MOU塾
MOU塾
山形市円応寺の完全個別指導塾
MOU塾
代表 安達 浩寿 / 塾長 安達 麻衣子
開塾時間|平日16:00〜22:30・土日祝13:30〜22:30
住 所 |〒990-0067 山形市円応寺4-4
電 話 |023-625-4220
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